あとがき

親を紛糾したが、おそらく私が屑のような性根をもって生まれたのはどの親でも変わりはなかっただろうし、そうでなかったとしても取り返しの付かない時間が過ぎていった。

今回私がしたかったのは秘密の暴露で、秘密を抱え育ち乗り越え人として成長するというイベントを放棄した挙句八つ当たりをしたというだけのことだ。

親が私のことを虐待してたと認識していたかは定かではないが、母は私に対する暴力を隠すことのない人で私が一所懸命に隠し庇う子供だったので恐らくそういった意識はゼロだったと思う。

 

それにしてもとてもスッキリした。

この文章を書き上げた時はまるで叫んだ後のように喉の奥が傷んだが、それほど力んでいたということなのだろう。

 

最初に書いたようにこれはノンフィクションである。私のことに心あたりがある人もいるかもしれないが、私はその件に関しては一切取り合わない。

私8

さてこれで今までのことを全てではないにしろ、思い返し終わった。短い人生だった。十八年も生きてきたくせに厚みのない、しかしクズのような人生を送ったことを告白し終えた。
ここから先はどうだっていい、後付けの話だ。

まず、思い返す内にぼんやり思い出したのだが、私は親に抱きしめられた記憶がない。生きててよかった、大好き、愛してるなんて甘い言葉も勿論聞いたことがない。高校に上がった時一度だけ抱きついてみたが、なんの反応もなかった。
だからか、今の私は母親を話の通じる友人で、学費や生活費をくれる他人だと思っている。死んだら悲しいかもしれないが、今はどうだってい。

そもそもこうしてみると、怒れば暴力を振るい手を焼くような親に愛されたい振り向いて欲しいと幼い私は必死だったのだ。そして、全て報われなかった訳だ。
私の家には愛猫家の母が十匹ほど猫を飼っている。私もすっかり猫派だ。今は不平は湧かないが、ふとした瞬間死ねやら猫より格下発言をされるのは未だにこたえる。まだ愛情があるらしい自分に嫌な気はしない。まだ人っぽさが残っていると笑えるくらいだ。

今の不登校がバレたら私はまた怒られるだろう。でももうどうだっていいことだ。学校はやめるし、家を追い出されても追い出されなくてもぼんやり毎日を過ごすことに変わりはない。味気ない日々が待っている。少し寂しいが、自業自得だ。


ここまで書いて、ふと思う。きっと大多数の人間は私に被害者ぶるな、猫に油をかけ虐待し万引きを働いたお前の方がよっぽど悪人だと言んだろうと。否定はできないことだ。
ただ、怒りを暴力に訴えていいと教育したのは親であるし、万引きだって猫ばかりで私をちっともみやしない親への子供の私なりの小さな反撃だったのだ。
天邪鬼だから、気付いたら大きくなっていたから言えなかっただけで、私は母親の愛情をずっと待っていたし求めていた。残念ながらそれは暴力とお金という形におさまったが。

誤解の内容に言っておくと、私はもう随分前から心の底から怒ることも泣くことも本気で他人とぶつかり合うことさえもやめてしまったので、今では少し愚痴っぽいだけの善良な市民の一部である。

語ることがなくなったので私の身の上話はもう終わりにしよう。もう話す事はない。普通の子と評され続けた私の評価は地に落ちてそれで終わり。半日でよく書けたと思う。後はこれをネットに載せてブーイングを待つだけだ。
ここまで読んでくれてありがとう。少しでも興味を持ってくれて嬉しかった。

私7

専門学校の生徒であった私も幸せだった。尊敬する教師こそ定職につきいなくなっていたが、クラスメイトとは仲が良かったし賑やかで華やかな舞台に立っていたと思う。ならばなぜ、と問う人のために答えよう。あいだ、億劫、鬱陶しいと。私は弄られキャラと認識され易く享受するタイプだが、悦んでいると思い込み、土足で踏み荒らされるのは好みではない。そして趣向をバラされるのも好ましく思っていない。

私が今もなお腹の奥で燻らせている出来事を聞いて欲しい。
その前に軽く説明しておくと、私は男同士の恋愛が好きで少年が好きだ。勿論これは特殊趣向だし、高校は同士が集まっていたためオープンだったが、専門学校ではそんなことはなく黙っているつもりだった。
いつの事だったか、もう思い出せないのだが、高校から同じ学校に通う知り合いがいた。私の名誉のためにいうが、仲良しではない。だがしかし高校時代、別クラスのくせ私のクラスに入り浸っていた彼女は私の趣向を知っていた。それを、まあ五月か六月そこらでバラされた訳だ。何が、「嘘つくの嫌だから言うけど~」だ!「勉ちゃんも好きだよねー」だ。全く、全く、全く!
その後からかわられるのは私だけだし、「佐々木が好きとかいうと犯罪者臭する」などと教師から言われるのも、ああ、ああ、私だけだ。分かる~と同意するのは専門学校からのクラスメイトだ。もうどうだっていい。

私は専門学校では幸せだった。その筈なのに、思い出すとそうではない気がしてくる。何故だ。

私6

高校の話はしたくない。あいも変わらずサボり癖はあったが、幸せだったからだ。
それなりに尊敬する先生もいて友達も出来て専門学校ながら普通に暮らしていたと思う。幸せだった。戻るならあの時がいいが、性格を矯正しなければならない部分が多すぎるので、子宮に戻って流産が一番楽だ。

多量の課題をこなしてようやく卒業させてもらった。

私5

中学の話は、今まで以上につまらない。私には友達が居たが私を弄って遊ぶ人ばかりだったし、教師もそんな感じのふざけた人間ばかりだったので、もちろん不登校に拍車がかかって家を出て遊び、怒られて家出し山へ逃げあっちへふらふらこっちへふらふら。不審車に追い回されたこともある。
ああ、あと二年生の時に万引き再犯で学校に連絡が入ったりもしたな。このときまだ左手は綺麗だ。

左手が焼けたのは冬のことだ。私はキッチンで怒られていて、左手を焼いたのは年季のこもった肉を切る包丁だ。最初はこれでお前の手を切ると言われて居たが、恐怖におののいた私が座り込み手を庇うので、母は左手を引っ張り、コンロでじっくり刃を温め押し当てた。当時のことを思い出して泣けてきたので、この話はやめとする。

その後は好きなアーティストで盛り上がる友人ができたりと幸せであったと思う。

私4

小学校の頃の話はまだたくさんある。私には友達は居なかったが、幼馴染みはいたしそれなりに遊んだりもしていた。思い出せることは冬になけなしのお小遣いでジュースを買ったら集られた事、ゴルフの真似事で前歯が折れ血が出たり、父親がいなくなったことで不安定になったのかは知らないが、万引きに手を染めたこと、バレて怒られたこと、あと休日の小学校の鍵のかかってない場所の扉を開けて警報を鳴らせてしまった事、幼馴染みとたくさん喧嘩をして一度だけしか自分から謝らなかったことくらいか。
ここまで書いて、私は小学校時代から自己中心的で感情コントロールが下手で、奴隷気質のある無知で馬鹿な子供であることが露呈してきた。全文削除も考慮しつつ、続く。

小学校には毎月頭に班長会がある。集団登校する中で最上級生には旗と棒が与えられ、それを振り回しながら登校する役割にあるのが班長だ。
当時六年生だった私は班長でありながら寝坊遅刻サボりの常習犯であったため、班長会には当然のごとく不参加だったしたまに参加しても、一度も発言や起立をしなかった。

ところで話は変わるが、私の母と父だった男は怒ると私を殴る、蹴る。あざは多分なかったと思うが、痛かったし不快だった。怒って暴力が許されるなら私だって、と何度も思ったものだ。
そうして育った私は中学二年の冬にとうとう不登校が過ぎて、暴力が度を越え、焼きこそ入れられなかったものの、熱した包丁で左手の甲を焼かれたのである。これは今でも跡がある。

私3

筆を取った理由と言っても些細なことで、私がおかしいのか家族がおかしいのか私が歪んでいたのか欠けているのか分からないし分かりたくもないのだが、他人の「身の上」というものを知りたい。ただそれだけだ。だがしかし教えてと言って教えてくれるほど人は優しくないだろうし、何より自分をさらけ出すというのは勇気を要する出来事だ。だからまずは自分がさらけ出してみようと思う。残念なことにすべてノンフィクションで。

ちなみに私の家は、私が物心つく前から小学五年あたりまで四人家族で、その後からは三人家族の母子家庭だ。
まずは幼稚園の出来事。検便の蓋を開けて少し指についたこと、卒業前アルバムの表紙を自分で描くという行事に曲がった線が許せなくて弾きすぎたこと、同級生のハーフの女の子の手を噛んだこと、泥団子でとても硬いものを作ったこと、母が迎えに来るのが遅くて園長先生におにぎりをもらったこと、お菓子は十五時と十八時の二回あって、十八時のお菓子はみんなには秘密だということ、可愛い女の子がいたこと、無知であったこと。
この頃家であったことは、初めてのお留守番、猫に油をぶっかけて外へ逃す(二度と帰ってこなかった)、カレーを作ろうとした残骸が箪笥から見つかり怒られる、お手伝いのつもりでコップを割って怒られる等。油をかけたのは母が他に希を見ない愛猫家であり、お前よりも大事でお前は殺しても捨ててもいいがこいつらだけは食わせ生かし続けるとまるで呪詛のように囁かれたため、初めてのお留守番のとき昼時を超えおやつの時間に差し掛かっても帰ってこない母に苛立ち擦り寄り愛情表現をする猫により爆発したからだ。とはいえこの狂気的な行動を正当化するつもりはないし、言い訳もしない。その代わり語るのはここだけだ。
通報したければすればいい。もう十数年も前のことだった。残酷すぎたと今の私に後悔の念を口にさせたって、何の意味もない。罪の意識だってない。可哀想に。あの猫は、幼い私の嫉妬に焼かれて死んだのだ。(勿論実際に火をつけた訳ではない。比喩表現である。)

私2

そうして愛車に乗り図書から逃げ果せた私は古本屋に立ち寄り、あてもなくふらふらふらふら彷徨った挙句百円で売られていた汚れた本を三冊程買って(私はこの文章を打ちながら買った内の一冊は家に同じものがあったことを思い出して嫌な気分になた。)近くにあったベンチ二つの公園とは言い難い広場へと身を寄せた。
太陽がジリジリと肌を焼く。暑い、夏ほどではないが、カラッとした暑さは夏とは違う嫌な暑さだと私は思っている。

さて、少し遅くなったが自己紹介をさせて欲しい。内容は、そうだね、名前・年齢・髪型・血液型・背格好・経歴とさせていただく。
ではまず名前だが本名を名乗るのも癪なので、ああ嘘嘘。経歴にこれ以上くだらない傷を付けるのも面倒なので、ペンネームを使おうと思う。佐々木勉、歳は十八。髪型は肩より少し伸びた癖毛を適当にお団子にしている。血液型はA。背は一五三で胸は申し訳程度についている。服装は白のYシャツに短パン、レギンス黒の運動靴に蛍光ピンクの靴下と灰色の上着を羽織って赤の車のイラストが描かれたリュックを背負っている。このセンスから察して欲しいのだが、私はお洒落というものに興味がない。申し訳ないことに、ミジンコ程も、だ。けれども私は、某ファッション専門校高等科に通い、今ではそこの専門科の生徒をやっている。何を間違えたのやら知らないが、ファッション的なものとのお付き合いは今年で四年に上る。だがしかし、このお付き合いもきっと今年で終わるだろうと踏んでいるし終わらせたい。

今日は十月二十三日木曜日。立派な平日であり登校日だ。登校なんぞしていないだろう、と思ったあなたは中々ツッコミの才能があるのではないかと思う。まあけれどそんなことはどうでもいい。実を言えば夏休み明けからずっと、私は登校していない。サボった日数は一月を超えた頃から数えるのを止めた。無意味だからだ。けれどももう二月に手が届いたか、それ以上かというところになる。
正直こんなところで筆を取らず学校に行けと言われるような状態だが、まあ取ってしまったことは仕方がないのでとりあえず私が筆を取った理由を聞いて欲しい。

カラコロカラコロと鞄の中の水筒が楽し気に音を立てた。音を殺すように鞄の上から押さえるとそれをあざ笑うかのように一際大きくコロンと鳴いた。
ふう、息を吐いて頭を振る。仕方がない、失敗だった。私は鞄を揺らさないようにゆっくり、けれど大股で歩き始めた。

右手に持っていた読みかけの本を元の場所に戻して図書を出る。相変わらず水筒は楽しそうに場に似合わぬ音を立てていた。

階段の手摺にてを軽く添え、撫でながら駆け下りる。階段を駆けるのも手摺に手を添え撫でるのも、長年染み付いた私の癖であった。
階段を駆け終えると今度はゆったりとした動きで大股で歩き始め自転車置き場に向かった。愛車という割には手を掛けていない、ワインレッドの自転車は、幾度もパンクして自転車を駄目にする私に母が買い与えたパンクしにくいタイヤの自転車だ。二週間に一度空気を入れるように、と書かれたシールも貼ってあるが最後に空気を入れたのは半年以上も前のことだったと記憶している。
というのも私はシャイで面倒くさがりで、スーパーの外に置かれた無料の空気つぎの機械のところに行くまでが面倒、だったり、人に見られるのは嫌だな恥ずかしいなという言い訳をして今に至ったのである。最近はこいつがパンクしないかが気掛かりだ。なんてったって、こいつがないと私は外に出るのも億劫なくらい、面倒くさがりである。